「野球留学」 第1章
2005年11月19日
初めて羽黒に行った日 5
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第12回
ただ、学校側も十分に見合うだけの成果を上げることができた。
創立41年目にして念願の甲子園に初出場したことはもちろんだが、
それ以上に評価されているのは、
すでに定員割れしていた学校を6年連続定員確保させたことにある。
先の契約書で、授業は全く持たないことも明記させた。
その代わり、学校経営、特に生徒募集などに関わるポストにつけるよう要望した。
広報室に在籍し、入試制度の改革をほぼ一人で手がけ、
入試パンフレット作りから募集戦略まですべてを改革することができた。
ところが、私が抜けた後、すでに定員割れを起こしているそうだ。
学校という職場は経営を理解する人たちが集まりにくいところなのかもしれない。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
ただ、学校側も十分に見合うだけの成果を上げることができた。
創立41年目にして念願の甲子園に初出場したことはもちろんだが、
それ以上に評価されているのは、
すでに定員割れしていた学校を6年連続定員確保させたことにある。
先の契約書で、授業は全く持たないことも明記させた。
その代わり、学校経営、特に生徒募集などに関わるポストにつけるよう要望した。
広報室に在籍し、入試制度の改革をほぼ一人で手がけ、
入試パンフレット作りから募集戦略まですべてを改革することができた。
ところが、私が抜けた後、すでに定員割れを起こしているそうだ。
学校という職場は経営を理解する人たちが集まりにくいところなのかもしれない。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年11月16日
初めて羽黒に行った日 4
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第11回
当時の仕事、つまり学習塾とスポーツクラブの経営との掛け持ちも許可してもらった。
最初の2年間は神奈川から山形に通って仕事をしていた。
月曜日は必ず神奈川にいて、「湘南クラブ」の仕事を続けてきた。
実は、先の「いなほ」に乗ったのは、その後数えるほどしかない。
ほとんど飛行機を利用した。
羽田〜庄内間は60分、庄内空港から学校まで25分、
つまり、朝7:30分の羽田発に乗れば9:00には学校で仕事をしていたのである。
年間100回以上この飛行機を使ったのである。
こういった費用の問題にしても、一つ一つ文書化し、契約書に明記した。
待遇も含めて労働条件が契約の決め手となった。
私の生活に掛かる費用はすべて学校側が負担することになった。
野球部に関わる費用も数百万の単位で自由に使うことができた。
甲子園に出場した年の収入は高校野球の監督としては破格であっただろう。
おかげで、藤沢にレストランを1軒持つことができた。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
当時の仕事、つまり学習塾とスポーツクラブの経営との掛け持ちも許可してもらった。
最初の2年間は神奈川から山形に通って仕事をしていた。
月曜日は必ず神奈川にいて、「湘南クラブ」の仕事を続けてきた。
実は、先の「いなほ」に乗ったのは、その後数えるほどしかない。
ほとんど飛行機を利用した。
羽田〜庄内間は60分、庄内空港から学校まで25分、
つまり、朝7:30分の羽田発に乗れば9:00には学校で仕事をしていたのである。
年間100回以上この飛行機を使ったのである。
こういった費用の問題にしても、一つ一つ文書化し、契約書に明記した。
待遇も含めて労働条件が契約の決め手となった。
私の生活に掛かる費用はすべて学校側が負担することになった。
野球部に関わる費用も数百万の単位で自由に使うことができた。
甲子園に出場した年の収入は高校野球の監督としては破格であっただろう。
おかげで、藤沢にレストランを1軒持つことができた。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年11月13日
初めて羽黒に行った日 3
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第10回
前日見た「いなほ」の車窓からの風景で、今回のオファーは受けないだろうと感じていたが、
選抜チームの選手を見てちょっと心を動かされた。
いい選手が結構いるのである。しかもみな身体がでかい。
鍛えれば強いチームができそうだ。
彼らは夏にハワイに遠征し、硬式野球も経験しているということだ。
私が監督で来るなら、この選手たちを羽黒に進学させ、連盟を挙げて応援するというのだ。
悪い話ではない。
学校を見せてもらった。
大学のキャンパス並の広さを誇る広大な敷地にある、
その野球場はフェンスもなくあまりにもみすぼらしかった。
300名収容可能という学生寮は老朽化し、人に見せられる状態ではなかった。
(現在は改善されています。)
こんな劣悪な環境であったのに、このオファーを受けようと考え始めていた。
学校側も私を呼ぶために最善を尽くしてくれた。
私が提示した様々な条件を、学校側はほとんどを了承してくれたのだ。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
前日見た「いなほ」の車窓からの風景で、今回のオファーは受けないだろうと感じていたが、
選抜チームの選手を見てちょっと心を動かされた。
いい選手が結構いるのである。しかもみな身体がでかい。
鍛えれば強いチームができそうだ。
彼らは夏にハワイに遠征し、硬式野球も経験しているということだ。
私が監督で来るなら、この選手たちを羽黒に進学させ、連盟を挙げて応援するというのだ。
悪い話ではない。
学校を見せてもらった。
大学のキャンパス並の広さを誇る広大な敷地にある、
その野球場はフェンスもなくあまりにもみすぼらしかった。
300名収容可能という学生寮は老朽化し、人に見せられる状態ではなかった。
(現在は改善されています。)
こんな劣悪な環境であったのに、このオファーを受けようと考え始めていた。
学校側も私を呼ぶために最善を尽くしてくれた。
私が提示した様々な条件を、学校側はほとんどを了承してくれたのだ。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年11月12日
初めて羽黒に行った日 2
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第9回
実はこの最初の日には同伴者がいた。東京学芸大学の野球部監督及川氏だ。
彼は東大野球部の1年先輩である。
学芸大も鶴岡で夏のキャンプを実施しており、
その日は鶴岡野球連盟主催の野球教室の講師で呼ばれていたのだ。
私もお手伝いもかねて、この日程にあわせて行くことにしたのだ。
もちろんこの時点では羽黒高校にお世話になることなど決めてはいなかった。
とりあえず、どんな学校か見てみようという気軽な感じだった。
この野球教室は鶴岡の中学生選抜チーム対象のものであって、
羽黒町の体育館で実施された。
東京生まれ神奈川育ちの私には理解できなかったが、
11月になると屋外では練習できなくなり、翌4月までグランドは真っ白になる。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
実はこの最初の日には同伴者がいた。東京学芸大学の野球部監督及川氏だ。
彼は東大野球部の1年先輩である。
学芸大も鶴岡で夏のキャンプを実施しており、
その日は鶴岡野球連盟主催の野球教室の講師で呼ばれていたのだ。
私もお手伝いもかねて、この日程にあわせて行くことにしたのだ。
もちろんこの時点では羽黒高校にお世話になることなど決めてはいなかった。
とりあえず、どんな学校か見てみようという気軽な感じだった。
この野球教室は鶴岡の中学生選抜チーム対象のものであって、
羽黒町の体育館で実施された。
東京生まれ神奈川育ちの私には理解できなかったが、
11月になると屋外では練習できなくなり、翌4月までグランドは真っ白になる。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年11月11日
初めて羽黒に行った日 1
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第8回
羽黒町の最寄り駅は鶴岡である。
山形県の第3の街「鶴岡」、東京からどのように行くのか?
初めて羽黒を訪れようとする人たちが誤解しているのは、
「山形新幹線が通りましたよねぇ・・・」
新幹線で山形に来てしまうと、そこから車で月山を越えなければならない。
さらに2時間コースだ。
正解は上越新幹線で新潟まで出て、そこから特急「いなほ」で鶴岡まで出るのだ。
初めて羽黒に行った日、「いなほ」から見た風景は忘れない。
12月初旬の日本海側の風景は、ぞっとするほど寂しかった。
特急が止まるとは思えないような駅に停車し、その駅には人影もない。
不安で胸が締め付けられそうだった。
鶴岡駅前にジャスコを見つけたとき何故かホッとした。
山形のしかも日本海側の街に降り立つことなど、一生なかったかもしれない。
しかし、縁あってその後6年間もその地で生活することになる。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
羽黒町の最寄り駅は鶴岡である。
山形県の第3の街「鶴岡」、東京からどのように行くのか?
初めて羽黒を訪れようとする人たちが誤解しているのは、
「山形新幹線が通りましたよねぇ・・・」
新幹線で山形に来てしまうと、そこから車で月山を越えなければならない。
さらに2時間コースだ。
正解は上越新幹線で新潟まで出て、そこから特急「いなほ」で鶴岡まで出るのだ。
初めて羽黒に行った日、「いなほ」から見た風景は忘れない。
12月初旬の日本海側の風景は、ぞっとするほど寂しかった。
特急が止まるとは思えないような駅に停車し、その駅には人影もない。
不安で胸が締め付けられそうだった。
鶴岡駅前にジャスコを見つけたとき何故かホッとした。
山形のしかも日本海側の街に降り立つことなど、一生なかったかもしれない。
しかし、縁あってその後6年間もその地で生活することになる。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年11月08日
そもそもどうして羽黒へ 5
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第7回
映画「フィールド・オブ・ドリームズ」を覚えているだろうか?
片田舎の町医者として人生を終えようとしているアーチー・グラハム。
彼は野球選手としてメジャーに上がった最初のシーズンの最終戦、
最終回にライトの守備につくが、打席は回ってこなかった。
そして、2度とメジャーに上がれず、たった1度の打席にも立てずに引退する。
彼は言った。
「夢が叶うまで、あともう少しだった」
「だが、夢は自分の肩をかすめて過ぎ去った」
「人生の節目となる瞬間は自分ではそれと分からない」
「また、チャンスがあるさ、と思ったが、実際はそれが最初で最後だった」
誰にでもチャンスは必ず来る。
しかし、そのときが正にチャンスであるということに気づかないことが多い。
そのチャンスが通り過ぎたときに初めて、
「ああ、あの時がチャンスだった」と気づくのだ。
しかも、それが最初で最後のチャンスかもしれない。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
映画「フィールド・オブ・ドリームズ」を覚えているだろうか?
片田舎の町医者として人生を終えようとしているアーチー・グラハム。
彼は野球選手としてメジャーに上がった最初のシーズンの最終戦、
最終回にライトの守備につくが、打席は回ってこなかった。
そして、2度とメジャーに上がれず、たった1度の打席にも立てずに引退する。
彼は言った。
「夢が叶うまで、あともう少しだった」
「だが、夢は自分の肩をかすめて過ぎ去った」
「人生の節目となる瞬間は自分ではそれと分からない」
「また、チャンスがあるさ、と思ったが、実際はそれが最初で最後だった」
誰にでもチャンスは必ず来る。
しかし、そのときが正にチャンスであるということに気づかないことが多い。
そのチャンスが通り過ぎたときに初めて、
「ああ、あの時がチャンスだった」と気づくのだ。
しかも、それが最初で最後のチャンスかもしれない。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年11月06日
そもそもどうして羽黒へ 4
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第6回
湘南クラブの創立から8年がたち、
学習塾とスポーツクラブを融合させたビジネスモデルが成功し、
藤沢の静かな住宅街に家を新築したばかりであった。
年齢も35歳になり、そろそろ野球もやめて次のビジネスを始めようと
思案していた時期でもあった。
そんな時、忘れかけていた甲子園への想いに火をつける、
甘い誘いをかけられてしまったのだ。
ただ、このオファーを受けるにしても、
最低1年の猶予が必要であると考えるくらいの常識は持っていた。
湘南クラブで70名以上の中学生をすでに預かっているのである。
彼らが卒業するまでは責任を持つべきである。
彼らを捨てて勝手に山形に行くことなど許されるはずもない。
そんなことをしたら、今後この地で生きていくことがつらいことになるだろう。
しかし、新築の家に3ヶ月も住まないうちに、
自分の家族や預かっていた中学生たちを残して山形に行くことになるのである。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
湘南クラブの創立から8年がたち、
学習塾とスポーツクラブを融合させたビジネスモデルが成功し、
藤沢の静かな住宅街に家を新築したばかりであった。
年齢も35歳になり、そろそろ野球もやめて次のビジネスを始めようと
思案していた時期でもあった。
そんな時、忘れかけていた甲子園への想いに火をつける、
甘い誘いをかけられてしまったのだ。
ただ、このオファーを受けるにしても、
最低1年の猶予が必要であると考えるくらいの常識は持っていた。
湘南クラブで70名以上の中学生をすでに預かっているのである。
彼らが卒業するまでは責任を持つべきである。
彼らを捨てて勝手に山形に行くことなど許されるはずもない。
そんなことをしたら、今後この地で生きていくことがつらいことになるだろう。
しかし、新築の家に3ヶ月も住まないうちに、
自分の家族や預かっていた中学生たちを残して山形に行くことになるのである。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年11月03日
そもそもどうして羽黒へ 3
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第5回
当時の私はボーイズリーグの「湘南クラブ」を創立し、
佐藤友亮(慶応〜西武)をエースとする2年目のチームで全国3位になり、
全日本のコーチとして世界選手権に出場するなど、
中学の硬式野球界では知られた存在であった。
学校としても、東大卒の野球部監督ということもあって、
営業的にもオイシイと感じたのか、行動力のある迅速な対応だった。
東大監督の三角(昨秋退任)は私が大学1年生のときの4年生で、
その後、彼が埼玉県の伊奈学園総合高校(1990年選抜甲子園出場)の
監督を務めていた時期と私が湘南高校で監督をしていた時期が重なり、
当時年に2回のペースで練習試合を持ち交流が続いていたのである。
今から思えば、当時の私にはそんな突然のオファーを受けてしまう、
心のすきまがあった。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
当時の私はボーイズリーグの「湘南クラブ」を創立し、
佐藤友亮(慶応〜西武)をエースとする2年目のチームで全国3位になり、
全日本のコーチとして世界選手権に出場するなど、
中学の硬式野球界では知られた存在であった。
学校としても、東大卒の野球部監督ということもあって、
営業的にもオイシイと感じたのか、行動力のある迅速な対応だった。
東大監督の三角(昨秋退任)は私が大学1年生のときの4年生で、
その後、彼が埼玉県の伊奈学園総合高校(1990年選抜甲子園出場)の
監督を務めていた時期と私が湘南高校で監督をしていた時期が重なり、
当時年に2回のペースで練習試合を持ち交流が続いていたのである。
今から思えば、当時の私にはそんな突然のオファーを受けてしまう、
心のすきまがあった。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年11月02日
そもそもどうして羽黒へ 2
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第4回
これは後に判ったことなのだが、
東大の野球部がその数年前から羽黒町の隣町である鶴岡市で夏のキャンプを張り、
地元の野球連盟と厚い交流があったのだ。
何分経済的な余裕のない大学野球部にとって、
格安で物心ともに至れり尽くせりの歓迎振りだったそうだ。
東大の野球部という弱小チームであっても、
一応東京6大学に所属する全国区の野球部ということで、
山形の片田舎の町にとってみれば、十分に刺激的な交流と感じていてくれていたようだ。
当時の羽黒高校は野球部に力を入れながらも、
なかなか甲子園に出場できず(決勝で3回も負けている)、
いよいよ中央から監督を招聘しなければダメだという学校経営者たちの意向で、
金野が鶴岡野球連盟の会長Sに相談したのだ。
Sは東大監督の三角裕に話を持ちかけ、そうして私の話になったのだ。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
これは後に判ったことなのだが、
東大の野球部がその数年前から羽黒町の隣町である鶴岡市で夏のキャンプを張り、
地元の野球連盟と厚い交流があったのだ。
何分経済的な余裕のない大学野球部にとって、
格安で物心ともに至れり尽くせりの歓迎振りだったそうだ。
東大の野球部という弱小チームであっても、
一応東京6大学に所属する全国区の野球部ということで、
山形の片田舎の町にとってみれば、十分に刺激的な交流と感じていてくれていたようだ。
当時の羽黒高校は野球部に力を入れながらも、
なかなか甲子園に出場できず(決勝で3回も負けている)、
いよいよ中央から監督を招聘しなければダメだという学校経営者たちの意向で、
金野が鶴岡野球連盟の会長Sに相談したのだ。
Sは東大監督の三角裕に話を持ちかけ、そうして私の話になったのだ。
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年10月31日
そもそもどうして羽黒へ 1
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第3回
「そもそもどうして羽黒へ?」
いつも聞かれる質問である。
1997年12月の初旬だったと思う。
当時の私は「湘南クラブ」という名の学習塾とスポーツクラブを経営していた。
その事務所の電話が鳴った。
受話器の向こうで山形なまりのきつい、大きな声で何か一生懸命話している。
現羽黒学園理事長、金野信勇(当時事務局長)からであった。
本当に理解不能な言葉だった。同じ日本語とは到底思えない。
半分も理解できなかった。
いきなり、野球部の監督をやってほしいという話のようで、
しかも、明日藤沢に来るというのだ。
当時の事務所は小田急線の善行駅が最寄だったが、
山形人に乗り換えの説明をするのが面倒になり、
JR藤沢駅まで迎えに行くと約束した。
到着の時間も言わずに切られたので、本当に来るのか確信がもてず、
仕方なく、翌日は早めの時間に事務所に入り待っていた
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
「そもそもどうして羽黒へ?」
いつも聞かれる質問である。
1997年12月の初旬だったと思う。
当時の私は「湘南クラブ」という名の学習塾とスポーツクラブを経営していた。
その事務所の電話が鳴った。
受話器の向こうで山形なまりのきつい、大きな声で何か一生懸命話している。
現羽黒学園理事長、金野信勇(当時事務局長)からであった。
本当に理解不能な言葉だった。同じ日本語とは到底思えない。
半分も理解できなかった。
いきなり、野球部の監督をやってほしいという話のようで、
しかも、明日藤沢に来るというのだ。
当時の事務所は小田急線の善行駅が最寄だったが、
山形人に乗り換えの説明をするのが面倒になり、
JR藤沢駅まで迎えに行くと約束した。
到着の時間も言わずに切られたので、本当に来るのか確信がもてず、
仕方なく、翌日は早めの時間に事務所に入り待っていた
野球に関する様々なご相談にお答えします。
こちらからどうぞ!
2005年03月09日
決勝戦 羽黒対酒田南
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第2回
今年も去年と同じカードになった。
去年と違うのは、新チームになって初めての戦い、
つまり、昨年の決勝戦以来の戦いである。
昨年のチームは1年間で5回の決勝戦を酒田南と戦った。
県の私学大会、秋の県大会、春の県大会、春の東北大会、夏の選手権の5回だ。
最初の2回は勝って優勝したものの、後の3回は負けて準優勝になった。
昨年のチームは自信があった。
エースの吉村(現白鴎大)を中心に森元、カルデーラも控え投手力は万全であった。
打線も茅野(現三菱ふそう川崎)を中心に破壊力のある強力打線であった。
対する酒田南も小林投手を中心に完成度の高いチームだった。
夏の準決勝を互いにコールドで勝ち進むほど、この2校の他校との差は歴然としていた。
また、春の東北大会の決勝を山形県の2校で戦った翌日は、山形新聞の1面に掲載された。
これまで、東北対仙台育英という宮城2校の決勝はあっても
山形2校の決勝戦など考えられなかった。
レベルの高くない東北地区の中で、
さらにレベルの低いのが山形県というのがもっぱらの評判であった。
だからこそ、この出来事は山形県民の大きな話題となったのである。
山形県は高校野球に関して、深いコンプレックスを感じている。
全国で唯一ベスト8に入っていない県である。
おそらく他県の人は誰も気にしていないこの事実を、山形県民はことあるごとに持ち出す。
それにはあの暗い過去が関係している。
1985年夏の選手権、山形代表東海大山形高校は、
初戦にPL学園と対戦し、29点取られて大敗した。
しかも、マウンドに清原が立ったという屈辱の試合である。
私たちはもう忘れかけているが、彼らは忘れたくても忘れられないのである。
今年も去年と同じカードになった。
去年と違うのは、新チームになって初めての戦い、
つまり、昨年の決勝戦以来の戦いである。
昨年のチームは1年間で5回の決勝戦を酒田南と戦った。
県の私学大会、秋の県大会、春の県大会、春の東北大会、夏の選手権の5回だ。
最初の2回は勝って優勝したものの、後の3回は負けて準優勝になった。
昨年のチームは自信があった。
エースの吉村(現白鴎大)を中心に森元、カルデーラも控え投手力は万全であった。
打線も茅野(現三菱ふそう川崎)を中心に破壊力のある強力打線であった。
対する酒田南も小林投手を中心に完成度の高いチームだった。
夏の準決勝を互いにコールドで勝ち進むほど、この2校の他校との差は歴然としていた。
また、春の東北大会の決勝を山形県の2校で戦った翌日は、山形新聞の1面に掲載された。
これまで、東北対仙台育英という宮城2校の決勝はあっても
山形2校の決勝戦など考えられなかった。
レベルの高くない東北地区の中で、
さらにレベルの低いのが山形県というのがもっぱらの評判であった。
だからこそ、この出来事は山形県民の大きな話題となったのである。
山形県は高校野球に関して、深いコンプレックスを感じている。
全国で唯一ベスト8に入っていない県である。
おそらく他県の人は誰も気にしていないこの事実を、山形県民はことあるごとに持ち出す。
それにはあの暗い過去が関係している。
1985年夏の選手権、山形代表東海大山形高校は、
初戦にPL学園と対戦し、29点取られて大敗した。
しかも、マウンドに清原が立ったという屈辱の試合である。
私たちはもう忘れかけているが、彼らは忘れたくても忘れられないのである。
2005年03月08日
甲子園初出場
【野球留学〜羽黒高校甲子園初出場物語 第1章】第1回
2003年7月29日、宿敵酒田南高校を7対2で破り、甲子園初出場が決まった。
翌日、友達やこれまで応援してくれた人たちに、次のようなメールを送った。
小学校3年で少年野球チームに入り、
浪人時代の1年間を除いて毎日野球をやってきました。
甲子園にあこがれ、32年間ただひたすらに野球をやってきました。
あきらめずに続けてきたこと、
そして、やり遂げることができたことに感動しています。
開会式の入場行進はおそらく涙が止まらないでしょう。
長い戦いが終わりました。
1962年7月17日生まれ、もう41歳になった。
私たちの子供時代は、野球一色だった。
巨人のV9、長嶋、王。少年野球チームの背番号は1と3ばかりだ。
王の756号には興奮した。
鈴木康二郎投手から打ったあのホームランは忘れない。
野球少年はみな1本足打法の練習をした。
長嶋の引退試合には感動した。
テレビの前でカセットテープを回しながら、涙した。
「昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間、
巨人軍ならびに長嶋茂雄のために・・・」今でもそらで言える。
そして、「巨人の星」だ。
私をここまで野球に執着させたのは、
星飛雄馬もしくは梶原一騎かも知れない。
「巨人の星」は1968年4月から1971年9月まで3年半の間、
毎週1回テレビ放映された。
私たちの世代はまさに「巨人の星」世代といわれ、
飛雄馬と同じように甲子園を目指し、巨人の星を目指した。
だから、私の価値観のど真ん中に野球があるのだ。
甲子園で優勝した同級生愛甲猛(横浜高校)の輝きや、
小学生のとき川崎球場で見たV9戦士の雄姿に比べたら、
勉強して東大に入ることや医者や弁護士になることなど
ほんとに小さなことでしかなかった。
野球部でレギュラーになれそうもないやつがサッカーやバレーをやり、
スポーツで活躍することをあきらめたやつが一生懸命勉強をやっていた。
野球がうまいことが、人生の勝者のように感じていた。
だから、ここまでやってきた。勝つまではやめられない。
甲子園にいくための執念があった。
自分のスタイルを貫くため、衝突することも少なくなかったが、
誰に批判されようと自分の信念に基いて戦ってきた。
2003年7月29日、宿敵酒田南高校を7対2で破り、甲子園初出場が決まった。
翌日、友達やこれまで応援してくれた人たちに、次のようなメールを送った。
小学校3年で少年野球チームに入り、
浪人時代の1年間を除いて毎日野球をやってきました。
甲子園にあこがれ、32年間ただひたすらに野球をやってきました。
あきらめずに続けてきたこと、
そして、やり遂げることができたことに感動しています。
開会式の入場行進はおそらく涙が止まらないでしょう。
長い戦いが終わりました。
1962年7月17日生まれ、もう41歳になった。
私たちの子供時代は、野球一色だった。
巨人のV9、長嶋、王。少年野球チームの背番号は1と3ばかりだ。
王の756号には興奮した。
鈴木康二郎投手から打ったあのホームランは忘れない。
野球少年はみな1本足打法の練習をした。
長嶋の引退試合には感動した。
テレビの前でカセットテープを回しながら、涙した。
「昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間、
巨人軍ならびに長嶋茂雄のために・・・」今でもそらで言える。
そして、「巨人の星」だ。
私をここまで野球に執着させたのは、
星飛雄馬もしくは梶原一騎かも知れない。
「巨人の星」は1968年4月から1971年9月まで3年半の間、
毎週1回テレビ放映された。
私たちの世代はまさに「巨人の星」世代といわれ、
飛雄馬と同じように甲子園を目指し、巨人の星を目指した。
だから、私の価値観のど真ん中に野球があるのだ。
甲子園で優勝した同級生愛甲猛(横浜高校)の輝きや、
小学生のとき川崎球場で見たV9戦士の雄姿に比べたら、
勉強して東大に入ることや医者や弁護士になることなど
ほんとに小さなことでしかなかった。
野球部でレギュラーになれそうもないやつがサッカーやバレーをやり、
スポーツで活躍することをあきらめたやつが一生懸命勉強をやっていた。
野球がうまいことが、人生の勝者のように感じていた。
だから、ここまでやってきた。勝つまではやめられない。
甲子園にいくための執念があった。
自分のスタイルを貫くため、衝突することも少なくなかったが、
誰に批判されようと自分の信念に基いて戦ってきた。

